ちゃんとしたメディアを存続させるには

WEBRONZAリニューアル記念イベント「ネットサイト 未来のかたち」(2018年8月14日 於:朝日新聞メディアラボ渋谷分室)を聴講してきた。そこでの議論の影響を受けて、数日かけて奔放に広がった想像を記したい。イベントについての記述は筆者がメモから再現し得た内容であるので、各パネリストの方々が意図したところをきちんとくめた、真正の内容であるかまでは保証できない。影響を受けての妄想の方が分量が多くこともあり、きちんとしたまとめをお求めの方は公式などでお探しいただきたく。

ちゃんとしたメディア ちゃんとしてないメディア

――ネットにはちゃんとしたメディアとちゃんとしていないメディアがある。
ちゃんとしたメディアとは、記事にきちんと編集者、校閲者などがついているメディア。
ちゃんとしていないメディアとは、そうでないメディア。
しかし、ネットメディアということでいっしょくたにされる、そういう傾向がある。
のみならず、煽り見出しや、炎上に必要以上に火をくべるなど、ちゃんとしたメディアがちゃんとしてないメディアを真似し始めていないか?

パネリストのひとりである津田大介さんがこんな問いかけをしてから、議論は勢いづいた。

それを受けてパネリストから出たのは、ちゃんとしたメディアでも媒体によっては現場取材へのこだわりが薄れているところがあるという指摘であった。
いわく、ネットから話題を取ってきて、裏取りでシングルソースはまずいから、関係者2人以上から話が聞ければ出すと。話題を提供した方はその姿勢に「やってて恥ずかしくないですか、やりたくなくありませんか?」と、「本物のソース」「オリジナリティ」の軽視を悲しまれていた。

ちゃんとした/ちゃんとしてない、は後天的感受性として身につく?

ただ、この話を聞いて僕が思ったのは、「事実を扱うとき、現場取材や直接聞き取りは必須」「そうした取材活動が報道の真正性を保証するし、それが確保できない情報は世に出すべきではない」、というジャーナリズムの送り手と受け手で共有できていると前提されてきた価値は、実のところ一部の意識の高い人に植え付けられてきただけなのでは、という予感と不安であった。

もし、そんな前提が広く一般に浸透していたとしたら、情報発信にあたって、次の方々は以下に述べるようなことができなかったはずなのである。

・健康情報サイトのウェルクを指導していた人たちが、訓練を受けたわけでもないアルバイトに対し、コピペを容認するかのような指示をし、チェックもできないほどの大量の記事を掲載してきたこと。
ツイッターのユーザーが、今読んだツイートを裏取りすることもなくリツイートすること。

感受性を持っている人にとってこれらは、倫理にもとる誇りなき行動であるし、なにより何が起こるか分からず恐ろしい。自分の放った言葉が書かれた文字として残り、ネットを通じて誰の目にも触れうること。そして、世の中のどんな層のどんな感情を惹起するのか。不確かな言葉、誤解を招きやすい言葉を信じたことで財産を失ったり、健康を害したりする人が出るし、あるいは人を深く傷つけることになる、といったマイナスの効果の規模がどれほどになるか、はかりしれない。たとえ本当のことを発信したときでも、それが引き起こす事態をコントロールするのは難しい。本当でないことなら、なおさらではないか。

こうしたことで痛い目に遭ったり、人から怒られたりして、あるいは組織や他人がこうした問題を非常に重く見て対応しているのを目の当たりにして、ようやっとそうした感受性を学べるのではないか。

そうだとすれば、世の中の大部分の人はそもそも危険を学ぶ機会を経ずに、インターネットという情報の高速道路に身を乗り出していることになる。

あと、なぜだか、何度ネット交通事故を引き起こしても懲りない人は懲りないのはよくあることだが、個人的には首をかしげる。当たり屋もいるのかもしれないけれど、計画性を感じられない人も多いので。

名前を出すこと 組織で質を担保すること

大学の先生の言葉からもブログ勃興期の議論からも教えてもらったことだが、言葉を発表するとき優れた人が全力で正しいことを言おうとしても、人間は不完全で過つものゆえ、それを何度も続けていけばまったく間違いと無縁ではいられないはずなのだ。言葉によって引き起こされた被害というのは完全に元通りにすることができないということで、あがなうことはもちろん非常に難しい。では、そのなかで自分が書き手であるという人がどう落とし前を取るかというと、間違っていたらごめんなさいと謝って、訂正することしかないのだと。本名でなく、ペンネームでの発信であっても、いつもその名前をくっつけて継続的に仕事をし、間違いがあればその名前の責任として謝罪・訂正するなら、それは落とし前をつけているのだと(最近は、偉い人でもこれができなくなって頭が痛いですね)。

人は過つ以上、組織さえも過つ可能性はもちろんあるのだけれど、個人ではできなかったことが複数人数であればもっと大きく、質を高めてできるというのが組織の存在意義であろう。執筆者と編集者がいる、校正・校閲者という、文章上の間違えを探すプロがいる。一人では気づかないミスを複数人でチェックすることで見つけることもできるし、この記事を世に問うそもそもの意義に向かってぶれることない執筆を導くこともできよう。だからこそ、文章はもっと多くの人に届き、読まれ、また事実・記述において間違いを極小に抑えたものを読むことができる(最近、こういうことを思うようになって、まともそうなネットメディアの記事には執筆担当、編集担当の名前が冒頭に書かれているものがあると気づくようになった)。

ただ、最近、ネットで増えてきているメディアというのは、そうした見えない品質保証工程を知らないのか、あるいは知った上で省いているところも多いのではなかろうか。間違えたところで、人間ならペンネーム、メディアなら看板をつけかえて、再出発すればいいと思っているのだろうか。だとすれば、リーンスタートアップやら、チャレンジ精神と称揚されているよき価値も泣くであろうと思うのだが。それとも、リーンスタートアップやらチャレンジ精神とやらは最初からそうした危険性を孕むものであったか。

志のないネットメディアとは、記事を量産することでアクセス数を稼いで単にお金にしようとするか、あるいは、悪くすれば扇情的な情報で多くの人に誤った観念を抱かせようとするような存在であろう。事実確認というのはやってみるとわかるが、「ぐぐる」だけでも時間と手間がかかるものだ。こうした存在が活動できる領域を広大にこしらえてしまったネットでは、これから際限なく、一人の人間が処理できないほどの記号が日々増殖しつづけ、比較的よいもの、正しいものはそうしたものといっしょくたになりつつ埋もれ、イベントでも言及された「悪貨が良貨を駆逐する」事態になる。(イベントでも少し言及があったが、正しいことを言っている人でも、ひどいことを言っている人でも、同じ活字でその言葉がせまって来るということに対する心理的な効果というのは考えてみるべきことと思う。)

この数日で私が恐れ始めたのは、最初に入ったのがウェルクのごときいいかげんなウェブメディアの組織で、品質保証の工程自体を知らず、それゆえに言葉の恐ろしさに対する感受性を身につけないまま、経験があるからと一生いいかげんな言葉を生産し続けるという若い人が出ないかということである。旧世代からすると、それはもはや怪物だ。一生そのままとも思えないが、学びの時期が大幅に遅れたり、自分の経歴に驕って開き直りを始めるといったことは十分ありうる。

どのようにちゃんとしたメディアのファンを増やすか

課金メディア、広告メディアを問わず、ちゃんとしたメディアがこれからも継続していくためにはどうすればいいのか。

実のところ決定打はなく、やることをやっていくしかないという受動的なことしか私も申し上げられない。

ただ、上の私見で述べたような、「言葉の恐ろしさに対する感受性」「記事の質を上げるためには工程と人員とコストがいるのだという納得感」というのは後天的な思いであって、世の中のほとんどの人が持ち合わせているものではない、とひとたび思えば、子どもの社会見学、大人の社会見学、メディア業界の内幕記事、内幕こぼれ記事などで工程をもっと知ってもらい、かつ、目指している目標や志の部分でファンになってもらう、というのはひとつの方向性になり得るのではないかと思う。

ファン、というのが重要で、こんなに無料の、あるいは安価なコンテンツがあふれるなか、それらのなかでも人々の注目や視聴時間を奪い合う状況になっている。対価としてのブツの価値は下がっていくいっぽうであるなら、ブツを売り続けつつ、クラウドファンディングのサロンを念頭に、志を大きく打ち上げて根強いファンを獲得し、ブツとの交換をあまり気にせずに身銭を切ってくれるようなファンクラブを形成できれば、と思う。書いてて思ったが、空虚な図面だなこりゃ。

「悪貨は良貨を駆逐する」「あれはこれを滅ぼす」そうなのであろうが、おとなしくただで滅びてやると思うなよ、という気分だ。気分だけはな。