ITベンチャーとはふえるスミスである

ここ数年、IT関連の中小企業で働いてきた。1社目にいた期間の後半で、あるビジョンが浮かんだ。ITベンチャーは別に社会課題を解決するわけではなく、むしろ拡大によって今までになかった社会課題を作り、その解決を政府とか市民とかにぶん投げる。イメージにちょうど合致したのはすでに記憶がおぼろげだった『マトリックス』三部作である。まだ『マトリックス』を未見でネタバレされたくないという人は、以下の文章を見るのを控えていただきたい。

主人公達が現実だと思っていた世界は実は仮想現実で、機械のエネルギーを取るために生まれたときから水槽に入れられて眠らされていたのだと発覚する第一作以降、人間側と機械側で対立して戦っている『マトリックス』。二作目以降、機械側だった黒づくめの男「エージェント・スミス」がバグで仮想現実の人物らに人格コピーができる無際限の増殖能力を手に入れてしまう。機械の方でも困ってしまって、人間側の主人公ネオに、「スミスをなんとかしてくれ」と共闘することになってしまう。ここ20年近く現物を見てないが、たしかそういう話だった。

ITベンチャーなんて、失敗すればいい方で、成功したら無際限に増える。ユーザーはこりゃあ便利だって使いまくり、その数も増えまくるから、なくては生きていけないみたいになって、ほぼ人格レベルで同化しているみたいな感じになる。その一方であまりに増えまくったサービスの利用者数が社会にも影響を及ぼして、それまでの社会の生態系みたいなものを乱獲しつつ新しい流れができてもくるが、どうにも安定しないし、生成される秩序というのもコントロールができない。どこかにあつれきが出てくる。だからといって、当のベンチャー企業らはその問題を解決できるかっていったら、多分原理的にはできなくて、どうにかするのは政府とか利用者とかの手に委ねられる。と、そんなイメージが湧いたわけだ。『マトリックス』は有名だし、もとから情報化社会の戯画なんだろうから、こうした見方は折り込み済みだったり、ありふれたものだったりするのかもしれない。

僕個人について、いったい何の例を見ていたらそんなことを考えつくのか、という実例を挙げてしまうと正体が関係者に特定されてしまうかもしれず、幻視したビジョンを共有するにとどめて、今後同様の事例があれば、あのときの「ふえるスミス」ですよ、とお示ししたい。

というか、「ふえるスミス」ってとりあえず言ってみたかっただけなんです。

ちゃんとしたメディアを存続させるには

WEBRONZAリニューアル記念イベント「ネットサイト 未来のかたち」(2018年8月14日 於:朝日新聞メディアラボ渋谷分室)を聴講してきた。そこでの議論の影響を受けて、数日かけて奔放に広がった想像を記したい。イベントについての記述は筆者がメモから再現し得た内容であるので、各パネリストの方々が意図したところをきちんとくめた、真正の内容であるかまでは保証できない。影響を受けての妄想の方が分量が多くこともあり、きちんとしたまとめをお求めの方は公式などでお探しいただきたく。

ちゃんとしたメディア ちゃんとしてないメディア

――ネットにはちゃんとしたメディアとちゃんとしていないメディアがある。
ちゃんとしたメディアとは、記事にきちんと編集者、校閲者などがついているメディア。
ちゃんとしていないメディアとは、そうでないメディア。
しかし、ネットメディアということでいっしょくたにされる、そういう傾向がある。
のみならず、煽り見出しや、炎上に必要以上に火をくべるなど、ちゃんとしたメディアがちゃんとしてないメディアを真似し始めていないか?

パネリストのひとりである津田大介さんがこんな問いかけをしてから、議論は勢いづいた。

それを受けてパネリストから出たのは、ちゃんとしたメディアでも媒体によっては現場取材へのこだわりが薄れているところがあるという指摘であった。
いわく、ネットから話題を取ってきて、裏取りでシングルソースはまずいから、関係者2人以上から話が聞ければ出すと。話題を提供した方はその姿勢に「やってて恥ずかしくないですか、やりたくなくありませんか?」と、「本物のソース」「オリジナリティ」の軽視を悲しまれていた。

ちゃんとした/ちゃんとしてない、は後天的感受性として身につく?

ただ、この話を聞いて僕が思ったのは、「事実を扱うとき、現場取材や直接聞き取りは必須」「そうした取材活動が報道の真正性を保証するし、それが確保できない情報は世に出すべきではない」、というジャーナリズムの送り手と受け手で共有できていると前提されてきた価値は、実のところ一部の意識の高い人に植え付けられてきただけなのでは、という予感と不安であった。

もし、そんな前提が広く一般に浸透していたとしたら、情報発信にあたって、次の方々は以下に述べるようなことができなかったはずなのである。

・健康情報サイトのウェルクを指導していた人たちが、訓練を受けたわけでもないアルバイトに対し、コピペを容認するかのような指示をし、チェックもできないほどの大量の記事を掲載してきたこと。
ツイッターのユーザーが、今読んだツイートを裏取りすることもなくリツイートすること。

感受性を持っている人にとってこれらは、倫理にもとる誇りなき行動であるし、なにより何が起こるか分からず恐ろしい。自分の放った言葉が書かれた文字として残り、ネットを通じて誰の目にも触れうること。そして、世の中のどんな層のどんな感情を惹起するのか。不確かな言葉、誤解を招きやすい言葉を信じたことで財産を失ったり、健康を害したりする人が出るし、あるいは人を深く傷つけることになる、といったマイナスの効果の規模がどれほどになるか、はかりしれない。たとえ本当のことを発信したときでも、それが引き起こす事態をコントロールするのは難しい。本当でないことなら、なおさらではないか。

こうしたことで痛い目に遭ったり、人から怒られたりして、あるいは組織や他人がこうした問題を非常に重く見て対応しているのを目の当たりにして、ようやっとそうした感受性を学べるのではないか。

そうだとすれば、世の中の大部分の人はそもそも危険を学ぶ機会を経ずに、インターネットという情報の高速道路に身を乗り出していることになる。

あと、なぜだか、何度ネット交通事故を引き起こしても懲りない人は懲りないのはよくあることだが、個人的には首をかしげる。当たり屋もいるのかもしれないけれど、計画性を感じられない人も多いので。

名前を出すこと 組織で質を担保すること

大学の先生の言葉からもブログ勃興期の議論からも教えてもらったことだが、言葉を発表するとき優れた人が全力で正しいことを言おうとしても、人間は不完全で過つものゆえ、それを何度も続けていけばまったく間違いと無縁ではいられないはずなのだ。言葉によって引き起こされた被害というのは完全に元通りにすることができないということで、あがなうことはもちろん非常に難しい。では、そのなかで自分が書き手であるという人がどう落とし前を取るかというと、間違っていたらごめんなさいと謝って、訂正することしかないのだと。本名でなく、ペンネームでの発信であっても、いつもその名前をくっつけて継続的に仕事をし、間違いがあればその名前の責任として謝罪・訂正するなら、それは落とし前をつけているのだと(最近は、偉い人でもこれができなくなって頭が痛いですね)。

人は過つ以上、組織さえも過つ可能性はもちろんあるのだけれど、個人ではできなかったことが複数人数であればもっと大きく、質を高めてできるというのが組織の存在意義であろう。執筆者と編集者がいる、校正・校閲者という、文章上の間違えを探すプロがいる。一人では気づかないミスを複数人でチェックすることで見つけることもできるし、この記事を世に問うそもそもの意義に向かってぶれることない執筆を導くこともできよう。だからこそ、文章はもっと多くの人に届き、読まれ、また事実・記述において間違いを極小に抑えたものを読むことができる(最近、こういうことを思うようになって、まともそうなネットメディアの記事には執筆担当、編集担当の名前が冒頭に書かれているものがあると気づくようになった)。

ただ、最近、ネットで増えてきているメディアというのは、そうした見えない品質保証工程を知らないのか、あるいは知った上で省いているところも多いのではなかろうか。間違えたところで、人間ならペンネーム、メディアなら看板をつけかえて、再出発すればいいと思っているのだろうか。だとすれば、リーンスタートアップやら、チャレンジ精神と称揚されているよき価値も泣くであろうと思うのだが。それとも、リーンスタートアップやらチャレンジ精神とやらは最初からそうした危険性を孕むものであったか。

志のないネットメディアとは、記事を量産することでアクセス数を稼いで単にお金にしようとするか、あるいは、悪くすれば扇情的な情報で多くの人に誤った観念を抱かせようとするような存在であろう。事実確認というのはやってみるとわかるが、「ぐぐる」だけでも時間と手間がかかるものだ。こうした存在が活動できる領域を広大にこしらえてしまったネットでは、これから際限なく、一人の人間が処理できないほどの記号が日々増殖しつづけ、比較的よいもの、正しいものはそうしたものといっしょくたになりつつ埋もれ、イベントでも言及された「悪貨が良貨を駆逐する」事態になる。(イベントでも少し言及があったが、正しいことを言っている人でも、ひどいことを言っている人でも、同じ活字でその言葉がせまって来るということに対する心理的な効果というのは考えてみるべきことと思う。)

この数日で私が恐れ始めたのは、最初に入ったのがウェルクのごときいいかげんなウェブメディアの組織で、品質保証の工程自体を知らず、それゆえに言葉の恐ろしさに対する感受性を身につけないまま、経験があるからと一生いいかげんな言葉を生産し続けるという若い人が出ないかということである。旧世代からすると、それはもはや怪物だ。一生そのままとも思えないが、学びの時期が大幅に遅れたり、自分の経歴に驕って開き直りを始めるといったことは十分ありうる。

どのようにちゃんとしたメディアのファンを増やすか

課金メディア、広告メディアを問わず、ちゃんとしたメディアがこれからも継続していくためにはどうすればいいのか。

実のところ決定打はなく、やることをやっていくしかないという受動的なことしか私も申し上げられない。

ただ、上の私見で述べたような、「言葉の恐ろしさに対する感受性」「記事の質を上げるためには工程と人員とコストがいるのだという納得感」というのは後天的な思いであって、世の中のほとんどの人が持ち合わせているものではない、とひとたび思えば、子どもの社会見学、大人の社会見学、メディア業界の内幕記事、内幕こぼれ記事などで工程をもっと知ってもらい、かつ、目指している目標や志の部分でファンになってもらう、というのはひとつの方向性になり得るのではないかと思う。

ファン、というのが重要で、こんなに無料の、あるいは安価なコンテンツがあふれるなか、それらのなかでも人々の注目や視聴時間を奪い合う状況になっている。対価としてのブツの価値は下がっていくいっぽうであるなら、ブツを売り続けつつ、クラウドファンディングのサロンを念頭に、志を大きく打ち上げて根強いファンを獲得し、ブツとの交換をあまり気にせずに身銭を切ってくれるようなファンクラブを形成できれば、と思う。書いてて思ったが、空虚な図面だなこりゃ。

「悪貨は良貨を駆逐する」「あれはこれを滅ぼす」そうなのであろうが、おとなしくただで滅びてやると思うなよ、という気分だ。気分だけはな。

キミはウィキペディアの免責事項を読んだことがあるか?

ブログを始めたいなー、でも準備ができてないなーと逡巡していたここ1年。

メディアを始めるなら、この僕がやるからには、そのメディアのポリシー、方針、どこまで何を保証するか、きちんと明示して、クリックしたらすぐ確かめられるようにしておきたいと、あるとき思った(このブログでは現時点未整備)。

それで、いろいろぐぐっていたら、ウィキペディアの免責事項が出てきた。

 

「本サイトは、あなたに対して何も保証しません」

 

初めて読んだとき、笑っちまった。そりゃそうだよなと。

 

……あと、ウィキペディアを典拠に使うところはマジで眉に唾しよう。こういう免責事項を読んだこともないし、気にもならないんだろうから。

関係ないけど、よく指摘されることだが、ウィキペディアをウィキと略すのはやめてくれい。ウィキというツールを使った百科事典、というネーミングなんだから。

マルチメディアも遠くになりにけり、だ。

人はどんなときにブログを消すか?

トークイベント「借金玉、えらてん、わかり手の『バスる』ライティング講座」(2018年8月12日 於:株式会社CAMPFIRE)を聴講しての感想を書いた後で、最も大きかった衝撃について書き忘れていたことに気づく。展開はうまくできないのだが感想を書き残すだけ書き残して、このブログを続けるうちにそれが解消に向かうための布石としたい。

何かというと、最初のパートで借金玉さんが「しばらくやって数字をとれなければ、そのブログは『リセット』した方がいい」とおっしゃったことである。

消去に対する心の痛み

結局は何を目的にして書くかというシンプルな問題であり、数値に基づく経営視点としては、まったく当然のことだ。

しかし、私がこれからブログを続けて、単に数字が取れないというだけでブログを消せるだろうかとどうしても自問してしまうのである。数ヶ月やって数字が取れないだけだったら、どうしても未練が残ると思うのだ。

アフィリエイトの商材など、自分の人生にそれまであまり関係なかった話題やテーマだったからといって、「単なる依頼だから自分の実存にまったく関係ないし、仕事的に成果が全然だったから」といって、その存在をためらいなく抹消できるだろうかと思ってしまうのだ(以上は、借金玉さんがブログの消去に対して心の痛みを感じていないと思ったわけではないし、ご本人がそうだとしても非難しているわけではないことは付け加えておく)。

もとより、必要なデータを全部別の場所に保存したとしても、ハードディスクの初期化に心の痛みを感じる人間なのである。ましてや、よくあることだが話題やテーマに多少なりと入れ込んでしまったときには。

東京に出てきて、地方振興系のECサイトのようなところでライターをやり、側だけクラウドファンディングのまねごとみたいな記事なんかを書いていた。感動屋であることもあるのだが、案件のどれひとつとして心の反応がゼロということはなかった。共感するか、反感を覚えるか、割合は異なるが、案件のやり方や意義に対しての反応は両者が入り交じったものだった。

そして、雇い主から買われたものであるとはいえ、私のかけがえのない体力と時間をそれらは費やすので、それらを費やせば費やすほど、私は自発的にしろ、他律的にせよ、その案件に意識を傾注せざるをえなくなる。たいてい、冷静ではいられないのだ。

その反応さえも、トーシロのものなのかもしれない。事件に対する弁護士を思えば。患者に対する医療従事者を思えば。そう考えれば、反省すべきところである。

人がブログを消すとき

また、自分の文章の書きぶりや、達成感にいっときは酔ってしまう自分にとっては、その未練も問題だ。

ただ、人がどんなときにブログを消すかと考えると、実は従来の自分によるうぬぼれ鏡が割れたときであるとも言える。うぬぼれ鏡とも言わないが、なんらかの前提や自己意識が壊れたとき。それは軽重を問わず何か悲しい出来事かもしれないし、自分の成長によるものであるかもしれない。

そういえば、SNSを消すときもなんらか悲しいこと、つらいことがあったときではないか。自分もそんなことをやった。また、それこそ他者意識が薄い上に感情が高ぶったときに書いた数年前のSNS書き込みを見て「おわー!」となって、あわてて消したことがある。大学時代に初めて大学サーバに残った「私のホームページ」とはアカウントが卒業生のために永久保存されていれば抹消の対象であろうし、ミクシィとかそう考えれば怖くて見に行けないのである。

商売人としての目か、編集者としての目か、はたまた一私人の私の意識か、よく変わったか、悪くなったか、そんなことは人と場合、それぞれだろうが、感受性が変化したときに、人はブログを躊躇なく消す/消せるのであろう。文学者、知っているなかでは種田山頭火があるときそれまでの自分の作品を焼き捨てたように。そういえば、会の最後も講師自身の「成熟」と変化についての話で締めくくられていた。

会に参加された人全員の、よき道行きがありますよう。そして、また笑って語り合えることを祈りつつ。

「借金玉、えらてん、わかり手の『バズる』ライティング講座」聴講

「借金玉、えらてん、わかり手の『バズる』ライティング講座」(2018年8月12日 於:株式会社CAMPFIRE)というトークイベントを聴講し、共感するとともに大変勉強になったので主題別に自分の感想を述べたい。総花的には述べないので、そういうものをお求めの方は別のちゃんとしたところをのぞいていただきたい。

(また、間違いのご指摘があれば訂正し、書きすぎた部分は削除に応じます。)

ただ、私がブログを本格的に始めようと思うなど、かれこれ20年ぶりであろうか。「オレにも言わせろ!」と思わせるだけの熱はいただいたのである。

推敲について

実は、今回登壇のお三方について私は深く知らないまま、「ライティング講座」という言葉につられて申込ボタンを押した。

話を聞いてみると、僕の創作欲を著しく削いでいた

「読者側の事情をどうしても想像できない」

「よって戦略を立てられないし、適切な表現を使えているか不安だ」

「だいたい、他者意識というのが希薄で、ひとりよがりな内容や表現に陥ってしまっていることは必定」

「それに気づいてしまったからには、すさまじい『書きたい』という意欲、周到な準備と徹底的な推敲がなければ文章を世に出せない」

という意識を、この方々の発言が吹き飛ばしてしまったのである。

小山晃弘(わかり手)さんは「衝動のままに書く」と何度となくおっしゃっていてそのたびに別のおふたりからつっこまれていた。同氏は幕間(まくあい)で、ご自分のツイッターのフォロワーが1万人いるということは、自分のツイートが1万人に読まれているということなのだという事実に突如として思い当たり、「そりゃいかんわ」と自らの過去の発言におののいてらっしゃった。

金玉さんからは「ネットの文章に推敲は要らない。息を吐くかのように書ける文章を」「推敲するくらいなら、もう一本書いた方がいい」とおっしゃっていた。

小山さんご自身がメディアを運営されてらっしゃるのにご自身については上記の認識。質問コーナーでは、書くときにどうしても思ってしまう「他者がどう思うだろうか?」「戦略は?」という内語について、借金玉さんがのこりの二人へ尋ねても、「衝動のままに」とか「何も考えてない」みたいなことばしか出てこなかったので頭をかかえてらした。

このやりとりで勇気をもらったのである。ああ、オレは書いていいんだと。

原稿の長さなど定石について

「衝動のままに」などと言うと、他者に配慮のないひとりよがりだとも思えるが、逆から見ると「パッションがある」ということでもある。

えらいてんちょうさんはご自分のブログを熱情のままに始めて、1か月で45投稿されたが、今は更新されてないという。ただ、それが実はよかったんだと借金玉さんは解説する。ブロガーの実績は最大瞬間風速(そして、文章も初速だとおっしゃる)。自分の人生で起こったこと、思い入れのあるものなど、書き続ければ必ずネタ切れは起こる。5か月もたない。であるなら、前のバズの余韻があるうちに連打する(ただし、はてなブックマークに5つも載っかっているとウザい)。定石では計画的に1年もたせるほどのネタを数ヶ月で打ちつくし、PVの最高点を一度登り尽くしたのがえらいてんちょうさんの勝因だったのだと借金玉さんは分析するわけだ。

定石の逆張りは他にもある。原稿の分量について質問され、1万字近くても読んでくれる、2000字読む人は4000字読み、4000字読む人は8000字も読むのだと借金玉さんは話す。また、写真や絵を入れること、投稿時間をよく読まれる時間に合わせるなどの策もよく言われるが、それもやっていない。定石というのは確かにそれが有効だったときや場合もあるのだろうが、言語化されるほどに一般化した後ではダサさが発生するものであり、自分は逆張りでやってきたと。

これを聞いたとき、同様に長文になりがちでビジュアルに弱い私は励まされたし、実は時の流れだけでなく、「層」なのではないかと思った。長文を書かせるパッションが、ある程度の数必ずいるところの、同種のパッションを求める人々に受け止められるのだと。

その意味で、小山さんの運営する「メンヘラ.jp」は画期的で、自分のつらい経験を投稿し、読まれることで書いた人は癒やされ、それを求めて読みに来る人は共感し、励まされる。考えなければならない課題ももちろんあるが、そこではガチのキャッチボールが人を救っている場面が多く発生し、交流の場が生まれているのである。「わざわざ文章にする&文章を読む熱」というのは、自分だって中心に置きたいところである。

業界におけるディレクター的役割の不在、不足について

ところで。

常日頃思っているのは、ライター志望はなぜ、自由もなく、儲かりもせず、不安定なライターという職業に就きたいのか、という疑問なのだが、私自身は「自分にはこれしか売るものがないから」という悲壮な答えに行き着いた。

会でも、この問いを思い出させる議論があった。

会の議論の基礎となったのは、マニュアルなどをわかりやすく書ける「技術ライター」と、キャラクターによる書き方や切り口で売る「キャラクターライター」がいて、という話。キャラクターライターの方が売れるし、こういう有名どころがいるが(ここが一番笑えた)、一般の「数奇な人生」を歩まない人がなりたくてもなかなかなれるものでもなし(疑似体験やそう仕向ける「取材」は可能)、なによりキャラクターだけで売り続けるわけにはいかない。

ライター、特にキャラクターライターの限界は、ライターが肉体労働であるということであり、それゆえに「自分はひとりしかいない」という意味の肉体の限界にもつきあたることになる。

実力のあるキャラクターライターが、身体はひとつしかないので、ゴーストの前で話して、それを原稿化するという「組織化」はそれを越える手段となり得る(あと、ゴースト仕事は受けた方がいい、コピー元の技などの勉強になるという話もあった)。

今、メディアが儲かるのではないかと、上場一部の会社もこぞってメディア運営に乗り出しているが、書ける人材がなかなかいない。PVの実績など、安定して1000たたき出せれば立派な業績だという。

(推敲しなくていい、という借金玉さんの発言を先にご紹介したが、その直後、少し表情を曇らせて「ただし、夏目漱石を薦めたくなるようなレベルの人はいる」と付言された)

そこから、ライターのマッチングをするディレクター的役割が不在であり、育てていく必要がある、という話になった。

ライター志望者は公募すると無限に来るが、選別するだけで大変、ツイッター頼りに探した書ける人リストだけでも大変な価値になるという状況。書ける人を5人も抱えれば家が建つのではないかという発言も飛び出すほどだが、PVを保証できる施策とか質とかの担保、メディアの色まで見極めたライターの割り当て、クライアントとの交渉、記事の型を決める、などといったことまでできるところはどれだけあるものか、という話になった。

最近転職し、上記のことは痛いほどわかるように思った。オウンドメディアを作っているが、タイトなスケジュールのため、過去記事はウェルク化し、記事化できていない積み残した取材も多数。応募しても未経験者しかこない。こんな状況では欠陥商品を産みだすことしかできない。そう質問シートを出したところ、会場からは大変ウケが取れ、借金玉さんから「もう少し、経営側と労働者側を融合させずに(誰もがやる。諸星大二郎か!)会社とオレは別だからと笑って見ていてはいかがでしょうか?」とご提言いただいた。なるほど、そういう考え方もあるかと膝を打ちもしたが、やはり、自分の産みだした欠陥商品で人に笑われるならいい方で、人に迷惑までかけてしまったらと思うと体調が悪くなるのである。しばらく、この自問自答は続きそうだ。

ともあれ、楽しい時間と非常に参考になる知見をいただきました。講師のお三方と運営の皆様に感謝申し上げます。