人はどんなときにブログを消すか?

トークイベント「借金玉、えらてん、わかり手の『バスる』ライティング講座」(2018年8月12日 於:株式会社CAMPFIRE)を聴講しての感想を書いた後で、最も大きかった衝撃について書き忘れていたことに気づく。展開はうまくできないのだが感想を書き残すだけ書き残して、このブログを続けるうちにそれが解消に向かうための布石としたい。

何かというと、最初のパートで借金玉さんが「しばらくやって数字をとれなければ、そのブログは『リセット』した方がいい」とおっしゃったことである。

消去に対する心の痛み

結局は何を目的にして書くかというシンプルな問題であり、数値に基づく経営視点としては、まったく当然のことだ。

しかし、私がこれからブログを続けて、単に数字が取れないというだけでブログを消せるだろうかとどうしても自問してしまうのである。数ヶ月やって数字が取れないだけだったら、どうしても未練が残ると思うのだ。

アフィリエイトの商材など、自分の人生にそれまであまり関係なかった話題やテーマだったからといって、「単なる依頼だから自分の実存にまったく関係ないし、仕事的に成果が全然だったから」といって、その存在をためらいなく抹消できるだろうかと思ってしまうのだ(以上は、借金玉さんがブログの消去に対して心の痛みを感じていないと思ったわけではないし、ご本人がそうだとしても非難しているわけではないことは付け加えておく)。

もとより、必要なデータを全部別の場所に保存したとしても、ハードディスクの初期化に心の痛みを感じる人間なのである。ましてや、よくあることだが話題やテーマに多少なりと入れ込んでしまったときには。

東京に出てきて、地方振興系のECサイトのようなところでライターをやり、側だけクラウドファンディングのまねごとみたいな記事なんかを書いていた。感動屋であることもあるのだが、案件のどれひとつとして心の反応がゼロということはなかった。共感するか、反感を覚えるか、割合は異なるが、案件のやり方や意義に対しての反応は両者が入り交じったものだった。

そして、雇い主から買われたものであるとはいえ、私のかけがえのない体力と時間をそれらは費やすので、それらを費やせば費やすほど、私は自発的にしろ、他律的にせよ、その案件に意識を傾注せざるをえなくなる。たいてい、冷静ではいられないのだ。

その反応さえも、トーシロのものなのかもしれない。事件に対する弁護士を思えば。患者に対する医療従事者を思えば。そう考えれば、反省すべきところである。

人がブログを消すとき

また、自分の文章の書きぶりや、達成感にいっときは酔ってしまう自分にとっては、その未練も問題だ。

ただ、人がどんなときにブログを消すかと考えると、実は従来の自分によるうぬぼれ鏡が割れたときであるとも言える。うぬぼれ鏡とも言わないが、なんらかの前提や自己意識が壊れたとき。それは軽重を問わず何か悲しい出来事かもしれないし、自分の成長によるものであるかもしれない。

そういえば、SNSを消すときもなんらか悲しいこと、つらいことがあったときではないか。自分もそんなことをやった。また、それこそ他者意識が薄い上に感情が高ぶったときに書いた数年前のSNS書き込みを見て「おわー!」となって、あわてて消したことがある。大学時代に初めて大学サーバに残った「私のホームページ」とはアカウントが卒業生のために永久保存されていれば抹消の対象であろうし、ミクシィとかそう考えれば怖くて見に行けないのである。

商売人としての目か、編集者としての目か、はたまた一私人の私の意識か、よく変わったか、悪くなったか、そんなことは人と場合、それぞれだろうが、感受性が変化したときに、人はブログを躊躇なく消す/消せるのであろう。文学者、知っているなかでは種田山頭火があるときそれまでの自分の作品を焼き捨てたように。そういえば、会の最後も講師自身の「成熟」と変化についての話で締めくくられていた。

会に参加された人全員の、よき道行きがありますよう。そして、また笑って語り合えることを祈りつつ。